カロリーナの涙とコウカイ王
ブランスコの博物館に掛けられていたこれらの肖像画が気になり、数日調べてみました。
中央に女性。その表情はとても悲しそうです。同じ絵のはずなのですが私の持っている資料では涙も描かれています。彼女の名前はカロリーナ。左の男性はウィリアム。彼は王子です。
ドイツのハノーファーで二人は1790年に出会いました。ウィリアムは王子、カロリーナは一男爵の娘。立場が違う二人は結婚が許されません。しかし二人は1791年8月21日、密かに小さなチャペルで結婚式を挙げます。
1年後、結婚がカロリーナの父、そしてウィリアムの母の王妃の知るところとなります。
王族の王子がまさか誰にも知らせずに結婚していた。このスキャンダルにウィリアムの王室は全力で離婚させようとプレッシャーをかけます。
しかしすでにカロリーナのお腹の中には新たな命が宿っていました。
カロリーナの父は一時的に娘をハノーファーから離れさせます。ドイツのドリーブルクにて1792年11月12日、カロリーナは男の子を出産します。その直後にカロリーナはわが子を見ることもなく言い渡されます。
「生まれてすぐにあの子はなくなった」
これが引き金になり同年11月30日、絶望に陥った
カロリーナは離婚の承諾を決めます。ハノーファーに帰り、女王宛に離婚を承認する手紙を送り、ウィリアムは本国へと帰ることになります。
体調を崩したカロリーナを献身的に看病した医師と1795年に結婚します。それがこの上の右の肖像画の男性、メイネケ(Meineke)です。医師でありまた化学の研究者でした。
結婚してすぐにベルリンへと引っ越します。その後男の子と女の子が生まれます。(男の子は12歳で亡くなってしまいます。)
その後1809年、一家はベルリンからブランスコへと移ります。
ハノーファーともベルリンとは比べ物にならないこの小さな町でカロリーナは満たされた日々を過ごしたそうです。ですが移ってから6年後の1815年1月31日、この世を去りました。
本国に帰ったウィリアムはカロリーナが亡くなるまで結婚することはありませんでした。
カロリーナが亡くなった3年後結婚して二人の娘が生まれますが二人とも幼くしてなくなってしまいます。
1830年に王となりますが、男の子が生まれなかったため、王位は姪に渡されることになります。
姪の名はヴィクトリア。後に64年も女王に君臨することになります。
ウィリアムは船乗り王という名でも呼ばれたイギリス王ウィリアム4世その人でした。
ウィリアムの母、王妃シャーロット(15人も子どもを産んでいます)とウィリアムとの関係、ウィリアムは結婚こそしていないものの女優ドロシー・ジョーダンとの間に10人もの子どもを作っています。インターネットで調べる限り、1780年代後半からウィリアムはこのドロシーとの同棲をしている(カロリーナとの結婚前)ため、ウィリアムのドロシーとの関係、またカロリーナとの関係も詳細がつかめません。また、このドロシーの人生もまた悲しい最後を迎えています。
めぐり合わせが違っていたら、イギリスの王になっていたかもしれないウィリアムの唯一の嫡子であるカロリーナとの間に生まれた男の子は裕福なユダヤ人一家に養子として送られました。後にこの子は自分の出自を知る機会を得ますが、カロリーナもついにそのことを知らないままこの世を去っています。
カロリーナは、今もブランスコの教会の墓地で眠っています。